ろじかるんるんものがたり

病人が特に何も書かない。無駄だからだ。

四十九日

祖父の四十九日で帰省している。

まだ上京する前、家族六人で外食となったら決まっていく焼き肉店があった。車で 15 分ほど、価格はそこまで高くなく、ほどほどにおいしい。肉以外のメニューも充実しているので祖父母のような年寄りにも良い、ということだったのだと思う。子供連れを狙ったチェーン店等に、決まって安価なデザートがメニューにある、そういう感じの理屈だ。

今日は帰省してすぐ、亡くなった祖父を除く家族五人でその焼き肉店へ行った。五人で網を囲って食べる焼き肉は、一人かけた儀式めいて違和感があった。葬式なんかよりよっぽど喪失感がある。To say goodbye is to die a little に倣えば、肉を食うと少し死ぬということになる。意味わからん。

人は勝手に死ぬ。人が頑張って生きているのに、身勝手だと思う。死ぬ方も大抵の場合、死にたくて死んでるわけではないだろうし、仕方ないけれど。
数年前に亡くなった父方の祖父は、身勝手も身勝手、何があっても病院にいかない、死ぬときは勝手に死ぬと口に出していうような人だった。最期は胸の痛みを訴え続けて、痛みの酷さに最後は折れて祖母に肩を借り、病院の前まで歩きついたけれど、そこでぽっくりと亡くなった。
先月亡くなった母方の祖母は、悪くないところの方が少ないという感じの人だったけれど、そこそこに長生きをした。それでも最期は、ボクや母の予想を大きく上回る早さで訪れた。

死ぬことも難しい難儀な社会だと思っていたのだけれど、思ったより呆気なく人は死ぬ。社会は人間に厳しく、生きることを強要してくるくせに。死にたいとは思わないけれど、日々を生きるのは辛いことの方が多い。
何事もバランスが大事だ。少し死にたい気持ちで、少し生きて、社会や現実と向き合っていくしかない。ただそこにあることは許されないが、できることは限られているし、何が最善かもわからない。適度に不幸な人生との付き合い方は、どうすれば教えてもらえるのだろうか。八月に帰省したときに、祖父に聞いておくんだった。

一周忌には、部分就労でいいので、職についていられればいいなあ。