ろじかるんるんものがたり

病人が特に何も書かない。無駄だからだ。

今年読んだ百合、GL、それっぽいの、おすすめまとめ

www.adventar.org

6 日目です。

休刊とか方針転換とかで界隈はわやくちゃですが、一方で各方面から突然変異的に出てきたりしているし、よく分からないですね。なるようにしかならないとは思いますが。個人的にはあのキスのドラマ CD 予約忘れてたので、もうおしまいです。

閑話休題。思いついた順に雑に紹介します。

 

安達としまむらシリーズ詳細|入間人間公式サイト

二年前に電撃文庫から突然飛び出てきたライトノベル。百合やんけ!みたいな感じで界隈の一部が瞬間的に盛り上がったりした記憶がある。先月、最新刊の五巻が出ました。著者いわくラブコメ。GL がどうのとか関係なく、純粋に面白いしおすすめしやすい。

 

お金がないので滅多にしないんですが、たまたま表紙買いしたら当たりでした。直球な話からめんどくさい話まで、全方位的に良いです。純粋に GL だけを扱った話は一本だけなので、紹介するのが躊躇われたけれど、まあいいでしょう。僕らの正しい愛とは。

 

鬼さん、どちら | 小学館

「角」が所謂「障がい」のメタファーとして描かれた群像劇…みたいな分かりきった話はどうでもよくて、そう、群像劇なのですが、その中でも中心的な役割を果たす二人がね…かわいくって…最後なんて、反則的な笑顔ですよ。こういうコマを見るたびに、漫画というのは、最後は表情なのだな…という気持ちになります。「フツーに弱くちゃダメですかね」という台詞は、とても刺さった。

 

yawaspi.com

とうとう完結してしまった。ウェッブで一部が読めるので、兎に角読んでみてくださいとしか。

 

ハーモニー | 種類,ハヤカワ文庫JA | ハヤカワ・オンライン

有名だったり界隈で話題になったりした作品はわざわざ紹介しなくてもいいかな、と思っていたのですが、SF だからという理由で手を出さない人もいるかもしれない、と思ったので矢張り書く。劇場版と百合姫でのコミカライズ企画の話はヤメロ。劇場版まだ見てないんです。

学生時代に死んだはずの不良のカリスマ的美少女の影を、いい大人になっても不良を辞められない美女が、世界の果てまで追いかけ回して二人で「終わる」話…と紹介すれば SF とかなんか怖いみたいな人でも読めるのではないでしょうか。一応ガチ SF ですが、伊藤氏の長編の中では最も娯楽性は高いし読みやすいと思います。

 

あれ五つしか出てこなかった。いや、放課後のプレアデスのあおすばいいよねとかシンデレラガールズ最高かよとか去年だけどゆゆゆ公式に百合押しすぎでしょとかこれも去年だけど姫神の巫女完結しましたねとか、色々あるわけですが、だらだら列挙してても仕方ないし、厳選となると難しいなあ…

あと全然関係ないけれど、百合作品は感情移入しないから~みたいな話をツイッターで耳にしたのですが、普通にするので正直良く分からなかった、少数派なんだろうか。どうなんですかね。投げっぱなしのまま雑に終わる。

トラムセットで左手の痛みが大きく軽減された

昨日あまりにも体調が悪くて、別に病院にいけば解決するなんてことはないと頭では思いつつも、病院へいってしまった。デパスの耐性がいい加減つきすぎできつい、睡眠も薬が切れる頃には目が覚めるので十分に取れない、とか色々。別にそういう相談は今回が初めてではなくて、何度もしている。その結果、今回はトラムセットというお薬を処方された。

 

トラムセットを処方されたのは今回が初めてではなくて、三年前にも一度処方されている。

ろじかるんるんものがたり(徒然): お薬まとめ

このときも、デパスに耐性ついてしまって相談したのだったと思う。結果は記事にあるとおり、効かなかった。リリカも効かなかった。価格も効能も結構なお薬なはずなんだけれど。

 

三年前に試したときは一回一錠、朝夕で一日二錠。今回は、一日六錠までは飲めますよと聞いたので、倍飲むことにした。鎮痛剤の中でも強めのお薬なのでちょっと抵抗はあったけれど…結論からいうと今回はしっかりと効いてくれた。副作用も出たけれど、デパス初めて飲んだ頃に比べればそれほどではない。左手の痛みが取れたのは、デパスを飲み始めた頃以来ということで四年ぶりということになる。

 

デパスの時も勿論効いて最初は良かったのだけれど、何せ耐性が付きやすいので、すぐに量を増やすことになって、増やしたあともすぐ駄目になった。そんなわけでここ三年間は左手が 24 時間痛かったのだけれど、それが、消えた。ちょっと泣いた。

 

どうせここ誰も見てないだろうし書くけれど、痛みというのはストレスになるわけで、それが 24 時間続くのは本当に辛い。慣れたし調子が悪くない日は我慢も表面上は出来たけれど、その時の気分とか特に関係なく、気づいたらぽろぽろ泣いてるみたいなことは結構あった。デパスの長期服薬も関係あるかもしれない。三年かあ。三年ですよ。よく耐えられたなあ…駄目だ泣けてきた…と同時に、三年前にお薬増やしていればという後悔も…でも増やしていいだなんて、その時は聞かなかったしなあ。

 

別に病気が治ったわけではない。昨日の寝る前に時間がたってお薬が切れるとまたすぐ痛み始めるのは確認済み。デパスだって長期服用すると色々面倒なことになるんだけれど、トラムセットは前述のとおりそれなりな鎮痛剤なので…嬉しい反面、これを飲み続けるのかあという気持ちにもなる。何よりデパスに比べると高い。今は生活保護を受けているから問題ないけれど。

 

デパスほどではないけれど耐性だってつくだろうし、もしかしたら今後またデパスと同じようなことになるかもしれないけれど、今はひとまず素直に喜んでおこう。やった。ここ数年全く治るビジョンなんてなかったけれど、もしかしたら治るかもしれない。今仕事を探しているのは、年齢的なものとか色々あるのだけれど、療養に専念したにも関わらず治るというビジョンが全く見えてこなかったので、しっかりと治してから社会復帰なんて考えでは甘い、一生付き合っていくつもりでやっていくしかないという気持ちがあったからだった。ひょっとすると治るかもしれない。頸肩腕症候群の治療において、痛みの軽減は非常に重要らしく、それは恐らく痛みによるネガティブフィードバックがあるためで、そんなだからこの症候群は重症難治化するらしい。ただ休んでればいいのならよかったのに。勿論休むことは重要だけれど、痛みを取り除けないのであれば片手落ちだ。だった。

 

言語化したら、本当に嬉しいやら辛かったやらなんやらでよくわからなくなってきた。正直もう死んだほうが楽だよなあと何度も思ったし、昨日だってそんな気分だった。勿論死ぬ勇気なんてないし、社会はそう簡単には死なせてくれないし、何よりも死にたい以上に、社会なんかにスポイルされて悔しい、こんな惨めなまま死ぬなんて絶対に嫌だという気持ちがあったので、実際には死ぬなんて選択肢を取るつもりはなかったけれど。何かの拍子にぽきっと折れていたかもしれない。大げさかもしれないけれど、生きててよかった。繰り返しになるけれど別に治ったわけじゃない。可動域に問題はないけれど、筋力はすっかり落ちているし、左手はうまく動かない。病気を自覚してつらい気持ちになることは今後もいくらでもあるだろう。これで明日とか明後日に効かなくなってたら笑える。あと、気圧が下がってる時は体調が一気に悪くなるけれど、そういうときにどこまで効くかはまだ分かっていない。

 

まあでもいいじゃないか、三年ぶりに痛みが無い状態になったんだから、ぬか喜びでもなんでも嬉しいものは嬉しいし、泣いたって、誰がボクを責められるというのか。自分で言うのもなんだけれど、よくよく頑張ったと思う。ずっと耐えてた。心身ともにしんどかったし苦しかった。弱ってる時に、たまにツイッターでぽろっとつぶやいてしまうこともあったけれど、惨めだしみっともないし、あんまりそういうことは言わないようにしてきた。つらぽよアドベントカレンダーなんてものが二年前にあったけれど、アレも辛いですよなんてフリしながら書いただけで、思うこと全部を書いたわけじゃない。書けるわけがない。ツイッター以外だと、今年の秋に祖父が亡くなった際に、お坊さんと二人で話した(ほとんど聞いてもらってただけだけれど)くらいだ。結局そうやって我慢する性質だから、こんなもの患って、悪化したのだと思う。もうそれは仕方ない、こういう人間だし、人間はそんな簡単には変われない。

 

この状態がずっと続いて、治ってくれればいいと思う。経験上世の中そんなに甘くないので、長い目で見て楽観視するつもりは全くないけれど、今は素直に喜ぼう。やったぜ。やった。やったぞ。語彙力が下がっている。

 

こんな長く書くつもりなかったんだけれど、堰を切ったようにとはこういうのをいうんだろう。何かこれ submit するのは躊躇われるな。いいか。どうせ誰も読まない。

 

ちなみに台無しな話としては、痛みは消えてくれているんだけれど、たまに勝手に筋肉が緊張したりするのはどうやらそのまんまみたいで、痛みもなしにつっぱったような状態にあちこちがなったりはしている。変な感じだ。デパスの時はそういうのもなくなったんだけれど。安定剤と鎮痛剤の違いだろうか。

 

兎に角良かった。どう考えてもこの文章をウェッブに公開すべきではないと思うけれど、もう書きおわったし公開する。来週や来月の自分がこの記事を見てあーあぬか喜びしちゃって、なんて思ってないことを祈る。

アルコール

安定剤、ラムネなどとよく称されるデパスを処方されて飲んでいるので、本当はアルコールの摂取はあまりよくないのだけれど、兎に角疲れてしまっていて、ワッとなって前から(病気のおかげで全くいけなかったのでもう四年前だ…)目をつけていたバーに行って来た。

結論から言うと、飲んでいる最中に何か問題が起こるということは全くなかった。そもそもデパスの処方量が、所謂メンタルがヘルヘルしている人たちより少ないので、そういうものなのかもしれない。久しぶりに飲むお酒はおいしかった。高いし…血税だし…最低の人間だ…

ところが帰宅してしばらくすると、病気が悪いのか単なる関節痛か、あちこち体が痛み出してしまった。まだお酒飲んでたころから、アルコール摂取すると関節痛であいたたみたいなことはあったんだけれど、あいたたなんて軽いものではなくて、ぐえーぐえーみたいな…懲りたので、もう飲まないと思う。お金もないし。大体飲んでる最中はいいけど、その後思考が鈍るのが好きじゃない。じゃあなんで飲んだんだよとわれても、疲れで正常な判断力を欠いていたとしかいいようがない。

大人になるとアルコールという逃げ道ができるんだ、なんてことをいう人間がいたけれど、逃げる先がない人間はどうすればいいんだろうか。皆して健康を勝手に仮定した上で無責任なことをのたまう。悔しい。不健康な人間は不健康な人間同士、微妙に相容れないところがあり、矢張り辛い。なんなんだ世の中は。世の中のほうに、なんなんだお前はと思われているのかもしれない。こんな人間ですいません。

お酒いいことないし遺法にすればいいと思うけれど経済を一定健全に回している以上は合法にしておくのが無難なんだよなとかそういう話ではなくて、兎に角飲んだら世の中にしかられて辛くなったという話です。

感動の共有は難しく価値に乏しいということ

誰だって、意を得たり!と思うようなことが大小さまざまにあって、大きなものはある種の感動に近い感覚を覚えることもある。それはまあ別にいいんだけれど。

 

得た物ではなく得た体験、感覚を共有しようとする人間がたまにいる。感動や幸福といった類のものの押し付けは、悪意はないのだろうなあと思うけれど矢張り面倒なことが多い。美味しいランチが出る店を見つけた、みたいものなら別にいい。口に合わないかもしれないけれど。本人にしか大してメリットがなかったりすると、さてどうしたものかという気持ちになる。適当に相槌をうってごまかすのか、拒否するのか。優しさと誠実さのトレードオフについて考えるのも億劫なので、何だかんだ最後は拒否してしまう事が多い。ボクは優しくない。誠実でもないが…うーん…

 

兎に角気持ちが高まって人に何か物を勧めたくなったら、一度冷静になってそれが本当に相手のためになるかを考えたほうがいいということで、まあでも気持ちが高まっているときは大体人間は判断を誤るよなあ難しいなあという話です。一応断っておくと、ボクがやらかしたという話ではないです。

お薬

久しぶりにやらかした。お薬を切らしてしまった。明日は午前の診察はお休みなので、午後まで耐えないといけない。

 

体中があちこち痛む。身体機能に問題はないのに、痛みが生じるというのは何とも納得し難いものがある。身体を監視している機構が痛みという形でアラートをあげているわけだから、静的検査で false positive が発生しまくってるようなもの、と考えればいいのだろうか。迷惑な機構もあったもんだなあ…機構自体の異常を察知し治癒する機構はないのだろうか。その機構のための機構のための機構も必要になる。機構のための機構のための機構のための機構のための…自己言及的な健全性の証明というのは何においても難しいらしい。

 

頸肩腕症候群と診断された人の中には、比較的短い(といっても年単位の話だ)期間で治癒する人もいれば、一向に治らないという人もいる、らしい。うらやましい…ボクは後者に入るのだろう。

症候群の病因に痛みが含まれると仮定すると、これは negative feedback だ。症状がある閾値を越えてしまうと、途端に快復しにくくなるのだろう。実際、重症になると難治性になるといわれてるようだし、痛みを取り除くことが治療において重要ともいわれている。よって、今の状態は治療という点から見ても大変まずい。眠ろうにも眠れないのでこうして駄文をだらだらと書き連ねている。こんなに痛いのにタイピングにほとんど支障がないというのも変な話だ。

素人がそれなりに重い病気に関してわかった風な口を利くのは良くないので、詳しく知りたい人は↓とかをどうぞ。

シリーズ 「頸肩腕症候群」の歴史 第4 回 「慢性過労性疾患(過労性疾患)」としての頸肩腕症候群=新小岩わたなべクリニック

 

ハーモニーに登場する Watch Me にはバックドアとも呼べる機構が存在したし、虐殺器官ではそのまんま痛覚の遮断というのがあったけれど、あんな感じで楽になれないものか…しかし痛みという生理反応を、感じないけれど認識はできるようにコントロールするというのは現実には無理だと思うなあ。無痛症の人とか見ていると…

 

痛みにも種類がある。nociceptive pain とか neurogenic pain とか。neurogenic pain のなかでも特に慢性的なものは neuropathic pain と呼ぶらしい。更に末梢性のものと中枢性のものに分かれていく。あと pychogenic pain とかもある。心因性

 

痛みで思考と情緒が安定しなくなってきたのでここで終わる。悲しくないのに涙が出ちゃうやつ。ああ痛い…痛い…

四十九日

祖父の四十九日で帰省している。

まだ上京する前、家族六人で外食となったら決まっていく焼き肉店があった。車で 15 分ほど、価格はそこまで高くなく、ほどほどにおいしい。肉以外のメニューも充実しているので祖父母のような年寄りにも良い、ということだったのだと思う。子供連れを狙ったチェーン店等に、決まって安価なデザートがメニューにある、そういう感じの理屈だ。

今日は帰省してすぐ、亡くなった祖父を除く家族五人でその焼き肉店へ行った。五人で網を囲って食べる焼き肉は、一人かけた儀式めいて違和感があった。葬式なんかよりよっぽど喪失感がある。To say goodbye is to die a little に倣えば、肉を食うと少し死ぬということになる。意味わからん。

人は勝手に死ぬ。人が頑張って生きているのに、身勝手だと思う。死ぬ方も大抵の場合、死にたくて死んでるわけではないだろうし、仕方ないけれど。
数年前に亡くなった父方の祖父は、身勝手も身勝手、何があっても病院にいかない、死ぬときは勝手に死ぬと口に出していうような人だった。最期は胸の痛みを訴え続けて、痛みの酷さに最後は折れて祖母に肩を借り、病院の前まで歩きついたけれど、そこでぽっくりと亡くなった。
先月亡くなった母方の祖母は、悪くないところの方が少ないという感じの人だったけれど、そこそこに長生きをした。それでも最期は、ボクや母の予想を大きく上回る早さで訪れた。

死ぬことも難しい難儀な社会だと思っていたのだけれど、思ったより呆気なく人は死ぬ。社会は人間に厳しく、生きることを強要してくるくせに。死にたいとは思わないけれど、日々を生きるのは辛いことの方が多い。
何事もバランスが大事だ。少し死にたい気持ちで、少し生きて、社会や現実と向き合っていくしかない。ただそこにあることは許されないが、できることは限られているし、何が最善かもわからない。適度に不幸な人生との付き合い方は、どうすれば教えてもらえるのだろうか。八月に帰省したときに、祖父に聞いておくんだった。

一周忌には、部分就労でいいので、職についていられればいいなあ。